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千葉地方裁判所 平成3年(行ウ)14号 判決

原告(選定当事者)

元吉廣治

中村輝

山近勉

奥田暁子

奥野卓己

被告

(千葉市長) 松井旭(Y1)

(千葉市消防局長) 湯浅一(Y2)

右両名訴訟代理人弁護士

堀家嘉郎

石津廣司

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、千葉市に対し、連帯して、金七万円及びこれに対する平成三年六月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告らは、いずれも千葉市の住民であり、被告松井旭(以下「被告松井」という。)は同市の市長、被告湯浅一(以下「被告湯浅」という。)は千葉市消防局(以下「市消防局」という。)の局長である。

2  公金の支出

平成三年三月一日、市消防局の救急車(以下「本件救急車」という。)一台と市消防局職員である救急隊員三名(以下救急隊員ら」という。)が出動し、被告松井の義母(以下「本件被搬送者」という。)を神奈川県高座郡寒川町所在の老人保健施設神恵苑(以下「神恵苑」という。)から千葉市更科町所在の医療法人誠馨会総泉病院(以下「総泉病院」という。)へと搬送した(以下「本件搬送」という。)。本件搬送費用として支出された公金は、本件救急隊員らの給与手当中本件搬送に対応する金員、本件救急車両とその付属設備の使用対価、ガソリン代及び高速料金等であり、その総額は七万円を下らない。

3  支出の違法性

(一) 本件搬送は、転院を目的とするものであるが、転院搬送が消防法(以下「法」という。)二条九項及び消防法施行令(以下「施行令」という。)四二条により定められる救急業務といえるためには、昭和四九年一二月一三日消防安一三〇号広島県総務部長あて消防庁安全救急課長回答(以下「昭和四九年消防庁通達」という。)によれば、〈1〉医療機関に搬送され初療の後であっても、〈2〉当該医療機関において治療能力を欠き、〈3〉かつ他の専門病院に緊急に搬送する必要があり、〈4〉他に適当な搬送手段がない場合には、〈5〉要請により出動する、との各要件を充たさなければならないが、本件搬送は、以下のとおり右各要件のいずれをも欠き、法二条九項及び施行令四二条に反する違法なものである。

(1) 神恵苑は老人保健施設であって医療機関ではなく、本件被搬送者は、神恵苑への入苑時、救急業務としての搬送を受けたものではない。

(2) また、神恵苑は医療機関ではないから、その治療能力はおよそ問題とならない。

(3) 本件搬送先の総泉病院は、法二条九項及び救急病院等を定める省令(以下「省令」という。)一条にいう救急病院ではない。また、被告松井が、同人の妻に電話をかけさせ、被告湯浅に対し、本件搬送の依頼をしたのは平成三年二月二六日であるが、現実に搬送が行われたのはその三日後の同年三月一日であって、本件搬送にはその緊急性も認められない。

(4) しかも、本件被搬送者は、本件搬送時、民間の搬送業者に依頼すれば、医師及び看護婦の同乗するあるいは自動車電話が備えつけられた車両による搬送を受けることができた。

(5) さらに、本件搬送に際し、本件救急車の出動については誰からの要請もなかった。

(二) 仮に、本件搬送が法二条九項及び施行令四二条に反するものではないとしても、本件搬送については、市消防局に対する神恵苑の医師からの要請は何らなく、本件搬送先の総泉病院が救急病院ではないこと、本件搬送中、本件救急車に神恵苑の医師ないし看護婦の同乗はなかったこと等からすれば、本件搬送は、千葉市消防局救急業務規程(以下「市救急業務規程」という。)二三条に反しやはり違法なものである。

(三) したがって、本件搬送費用についての前記公金支出もまた違法といわざるをえず、千葉市に右支出同額の損害が生じたものである。

4  被告らの責任

(一) 被告湯浅は、市消防局の局長として本件救急車の出動を決定した。

(二) 被告松井は、市長として、同湯浅に右出動を決定させた。

(三) よって、被告らは、前記公金の違法な支出により、千葉市に対し、右支出相当額の損害を被らせたものとして、同市に対してこれを賠償する責任がある。

5  監査請求前置

原告らは、平成三年三月八日、地方自治法(以下「地自法」という。)二四二条一項に基づき、千葉市監査委員に対し、本件搬送についての監査請求をしたところ、同監査委員は、右監査請求には理由がない旨の監査結果を出し、同年四月二四日、その旨原告らに通知した。

6  よって、原告らは、地自法二四二条の二第一項四号に基づき、千葉市に代位して、被告らに対し、損害金として七万円を連帯して千葉市に対して支払うことを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実中、平成三年三月一日、本件救急車及び本件救急隊員らが出動し、本件被搬送者を、神恵苑から総泉病院へと搬送した事実は認め、その余の事実は否認する。

3(一)(1) 同3(一)前文のうち、昭和四九年消防庁通達が記載どおりの内容である事実は認め、その余は否認ないし争う。

(2) 同3(一)(1)及び(2)の各事実は認める。

(3) 同3(一)(3)のうち、総泉病院は省令一条が定める救急病院ではない事実、平成三年二月二六日被告松井の妻が同湯浅に電話をかけた事実及び現実に搬送が行われたのはその三日後の同年三月一日である事実は認め、その余は否認ないし争う。

被告松井の妻が右電話で同湯浅に依頼したのは、本件被搬送者の搬送に適当な民間業者の紹介であって、本件救急車の出動ではない。

(4) 同3(一)(4)の事実は否認する。

(5) 同3(一)(5)の事実は認める。

(二) 同3(二)のうち、本件搬送につき神恵苑の医師から市消防局に対する要請はなかった事実、及び本件搬送中神恵苑の医師ないし看護婦の同乗はなかった事実は認め、その余は否認ないし争う。

(三) 同3(三)は争う。

4(一)  同4(一)の事実は認める。

(二)  同4(二)の事実は否認する。

(三)  同4(三)は争う。

5  同5の事実は認める。

6  同6は争う。

三  被告らの主張

1  住民訴訟の対象

地自法二四二条の二に定める住民訴訟は、普通地方公共団体の執行機関または職員による同法二四二条一項所定の財務会計上の違法な行為または怠る事実が、究極的には当該地方公共団体の構成員たる住民全体の利益を害するものであることから、地方自治の本旨に基づく住民参政の一環として、住民に対し、右財務会計上の違法行為等の予防または是正を裁判所に請求する権能を与え、もって地方財務行政の適正な運営を確保することを目的とするものである。したがって、この住民訴訟の対象は財務会計上の行為すなわち財務会計処理を直接の目的とする行為に限られ、本件では、本件搬送に伴う公金支出のみがその対象となるものであるが、本件搬送は、以下に述べるとおりそれ自体何ら違法なものではないから、それに伴う公金支出もまた何ら違法なものではない。

2(一)  原告らの法二条九項及び施行令四二条違反の主張に対し

原告らは、本件搬送が昭和四九年消防庁通達の要件を充たす場合に限って、法二条九項及び施行令四二条により定められる救急業務に該るものであると主張するが、同通達は、従前の通達を変更して、医療機関に収容済みの者も、一定の条件の下に、右救急業務の対象にするというものにすぎない。すなわち、同通達があるからといって、医療機関に収容されていない者が右救急業務の対象外となるわけではなく、要請がなければ右救急業務としての出動が許されないというものでもないのであって、法二条九項及び施行令四二条の各要件を充たすものであれば、当然に、これら法令が定めるところの救急業務に該るものである。

本件被搬送者は平成三年一月初旬頃から、腰痛及び歩行困難の症状があり、同月二一日に歩行訓練の目的で神恵苑に入院したが、その後、頭部CT検査で転移性脳腫瘍と診断されさらに病状が進行する可能性が生じ、本件搬送の時点では、脳圧上昇による痙攣発作を起こすおそれがある重症者となっていた。医療法上の医療機関ではない神恵苑においては、右のような治療はできず、本件被搬送者は、本件搬送当時、「生命に危険を及ぼし、若しくは著しく悪化するおそれがあると認められる症状を示す疾病に罹患し、医療機関その他の場所へ緊急に搬送する必要があるもの」であった。また、このように緊急性のある重症者は、民間の搬送業者の対象となるものではなく、神恵苑の所在地たる寒川町には、救急車が一台しか配備されていなかったことからしても、本件搬送に際しては本件救急車による以外他に適当な搬送手段がなかったものである。しかも、法二条九項は搬送先を救急病院に限らず「医療機関その他の場所」としており、以上からすれば、本件搬送は、法二条九項及び施行令四二条にいう救急業務に該り、何ら違法なものではない。

(二)  市救急業務規程二三条違反の主張に対し

原告らは、本件搬送が法二条九項及び施行令四二条に従ったものであるとしても、本件搬送は市救急業務規程二三条に反し、やはり違法であると主張する。

しかしながら、市救急業務規程は法令ではなく行政規則にすぎず、この行政規則とは、法律・命令の授権を待たずに行政権の当然の権能としてこれを定めることができる反面、行政機関の行為が行政規則に反することのみをもって当該行為を違法とすることはできないものである。したがって、仮に、本件搬送が市救急業務規程二三条に反するものであっても何ら違法の問題は生じない。

(三)  本件搬送の公務性について

また仮に、本件搬送が法二条九項及び施行令四二条にいう救急業務に該らないとしても、直ちに本件搬送が違法となるものではない。

本来地方公共団体は、その公共事務の処理を存立の目的とするものであるから、法令による制限がある場合を除いて、当該地方公共団体の裁量において多種多様の公共事務を処理することができるものである。法二条九項は救急業務を規定しているが、これは同法三五条の五により市町村に義務づけられる救急業務の内容を明らかにしたにとどまり、これ以外の傷病者搬送業務を市町村が行うことを一切禁じているものではない。現に、地方公共団体の事務を例示する地自法二条三項九号において「病人等を救助し、援護し若しくは看護し、又は更生させること」が掲げられている。したがって、地方公共団体たる千葉市は、法二条九項及び施行令四二条に該当しないものであつても、その公共事務の一環として傷病者を搬送しうるのであるから、本件搬送は千葉市の公務に該るものであって何ら違法の問題は生ぜず、その経費を同市が負担することもまた当然である。

四  被告らの主張に対する原告らの反論

被告らの主張は全て争う。

理由

一1  原告らがいずれも千葉市の住民であり、被告松井が同市の市長、被告湯浅が同市消防局の局長であること、平成三年二月二六日、被告松井の妻が同湯浅の自宅に電話をかけ、本件被搬送者の転院について相談したこと、同年二月二七日、被告湯浅が市消防局長として本件搬送のために本件救急車の出動を決定したこと、本件搬送については、市消防局に対して神恵苑の医師からの要請はなかったこと、同年三月一日、右決定に基づき本件救急車が出動し、本件被搬送者を神奈川県高座郡寒川町所在の神恵苑から千葉市更科町所在の総泉病院へと搬送したこと、本件搬送に際しては、常時、本件救急隊員らが本件救急車に同乗していたこと、本件搬送中、神恵苑の医師ないし看護婦の本件救急車への同乗はなかったこと、本件被搬送者は、神恵苑への入苑に際し、法二条九項及び施行令四二条により定められる救急業務としての搬送を受けたものではないこと、神恵苑は老人保健施設であって医療法にいう病院・診療所ではないこと、本件搬送先の総泉病院は省令一条が定める救急病院ではないこと、原告らが、同年三月八日、地自法二四二条一項に基づき、千葉市監査委員に対して、本件搬送についての監査請求をしたこと、同監査委員が、右監査請求には理由がない旨の監査結果を出し、同年四月二四日、その旨原告らに通知したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

2  〔証拠略〕によれば、本件被搬送者は、平成三年一月頃に神恵苑に入苑した当初から、一日中おむつ使用、着脱衣・入浴不能、起き上がり不能、歩行不能であったこと、同年二月五日に本件被搬送者の頭部CT検査を行ったところ転移性脳腫瘍が発見されたこと、そのため、神恵苑の医師は、本件被搬送者の病状は進行する可能性があるので、一日も早く脳外科病院へ移し治療を受けさせるよう被告松井の妻ら本件被搬送者の家族に指示していたこと、この指示を受けて被告松井の妻が受入れ先を探した結果、総泉病院へ同年三月一日に移ることが決まったこと、神恵苑は医師は一名のみで、病状安定期にある寝たきり老人に対して治療ではなくリハビリや介護を行うことを目的とする老人保健施設であること、他方、総泉病院は、内科(循環器科・消化器科・神経内科)・外科等の診療科を有し、CTスキャナ・各種X線装置・超音波診断装置・脳波計等の医療設備を整えた病院であること、被告松井の妻は、総泉病院の医師から、同病院へ搬送するについては、患者搬送車両を持つ民間業者の有無を消防局に問い合わせてみるよう指示されたこと、そのため、同年二月二六日、被告松井の妻が市消防局長である被告湯浅に右内容の問い合わせをしたところ、本件被搬送者の病状からして民間業者による搬送は無理だと思われるので市消防局で検討して明日にでも連絡するとの回答を得たこと、翌二七日、被告湯浅は市消防局において、救急業務を所管する市消防局警防部の部長森宥三と協議をしたところ、患者が高齢で重篤なので、搬送途中の容体の急変に際して、民間業者の搬送車両では直近医療機関への迅速・適切な収容が難しく、酸素吸入装置等の必要器材が備わっているか、適切な応急措置ができるか等の問題もあるので、救急車による搬送が妥当であり、転院搬送のための市外出動事例も相当数あって、神恵苑を管轄する消防本部より救急車の台数にも余裕のある市消防局が、受け入れ先の総泉病院を所管することからしても搬送をするべきであるとの結論に達し、同日、本件救急車の出動を決定したうえ、被告松井の妻に対しその旨回答したこと、市消防局には実働用二四台、予備用四台、計二八台の救急車両があり、本件搬送には予備用のうちの一台が使われたこと、本件搬送時の同年三月一日、本件被搬送者は八七歳であり、転移性脳腫瘍及び大腿骨転移性腫瘍の疑いで左半身が麻痺し、脳圧の上昇による痙攣発作を起こす可能性もある重症者であったこと、本件搬送当日、本件被搬送者の意識は不清明、顔を始め皮膚は蒼白、呼吸も多く浅い状態で、救急車への収容もストレッチャーにより行われたこと、神恵苑の医師から本件救急車に同乗した救急隊員に対して、脳圧上昇を防ぐため搬送中は常時頭部の挙上が必要であるとの指示があったこと、神恵苑から総泉病院までの搬送には四時間五八分を要し、同日午後五時過ぎ総泉病院に本件被搬送者を収容したこと、本件搬送当日、千葉市内の救急業務に特に支障は生じなかったこと、その後、同年七月一六日、本件被搬送者は総泉病院で死亡したこと、以上の事実が認められる。

二1  ところで、原告らの主張は、要するに「本件搬送は違法であるからそれに要した費用の千葉市による負担は、地自法二四二条一項の違法な公金の支出に該り、同法二四二条の二第一項四号に基づき代位請求しうる。」というものであるが、地自法二四二条の二に定める住民訴訟の対象が普通地方公共団体の執行機関または職員による同法二四二条一項所定の財務会計上の違法な行為または怠る事実に限られることは、同条の規定に照らし明らかであって、本件搬送が財務会計行為でないこともまた明らかである。

しかしながら、右行為が違法となるのは、単に、当該財務会計行為自体が直接法令に違反する場合のみならず、その原因となった非財務会計行為が法令に反し許されない場合にもまた違法となるものである。したがって、非財務会計行為である本件搬送も、その費用支出の直接の原因となるものであることからは、前者が違法であれば後者も違法となると解するのが相当である。

2(一)  本件搬送の違法性について、原告らは、本件搬送は転院搬送であって、転院搬送が法二条九項及び施行令四二条により定められる救急業務として適法なものと認められるためには、昭和四九年消防庁通達にいう、〈1〉医療機関に搬送され初療の後であっても、〈2〉当該医療機関において治療能力を欠き、〈3〉かつ他の専門病院に緊急に搬送する必要があり、〈4〉他に適当な搬送手段がない場合には、〈5〉要請により出動する、という各要件を充たさなければならず、本件搬送は右各要件のいずれをも欠く違法なものであると主張する。たしかに、右通達は、法二条九項及び施行令四二条により定められる救急業務の一運用基準を示すものとして、相当で合理的な内容を有するものではあるが、通達とは、行政機関内部において、上級機関から下級機関に対し、その所掌事務の処理に際して依拠しなければならない法令の解釈や運用基準を示達する形式の一つで、法規そのものを内容とするものではないから、本件搬送の違法性判断との関連においては、通達の定める右各要件を充たさないからといって、本件搬送が法二条九項及び施行令四二条により定められる救急業務に該らないというものではない。

また、原告らは、仮に、本件搬送が右救急業務に該るとしても、本件搬送は、市救急業務規程二三条に反するものであるからやはり違法であると主張する。しかしながら、市救急業務規程もまた救急業務に関する行政機関内部の運用基準を示すもので、法規を内容とするものではないから、本件搬送の違法性判断との関連においては、仮に、右規程違反があったとしても、本件搬送が直ちに違法となるものではない。

(二)  法二条九項及び施行令四二条は、生命に危険を及ぼし、若しくは著しく悪化するおそれがあると認められる症状を示す疾病に罹患した者のうち、医療機関(厚生省令で定める医療機関をいう。)その他の場所へ緊急に搬送する必要がある者を、右場所へ迅速に搬送するための適当な手段がない場合に、救急隊によって、医療機関その他の場所に搬送することも救急業務に該るとしている。すなわち、法は、右のような場合には、罹患者が医療機関に収容済みであるか否か、その搬送先が省令にいう救急病院であるか否か及び搬送についての要請があったか否かを問わず救急業務の対象としているのであって、前記認定事実によれば、本件搬送を決定した平成三年二月二七日当時、本件被搬送者は転移性脳腫瘍及び大腿骨転移性腫瘍により左半身が麻痺し、脳圧の上昇による痙攣発作を起こす可能性もある重症者となっていたのであるから、同人は右決定当時、「生命に危険を及ぼし、若しくは著しく悪化するおそれがあると認められる症状を示す疾病に罹患した者」であったと認められる。しかも右当時、同人は、転移性脳腫瘍及び大腿骨転移性腫瘍というそれ自体重篤な疾病に罹患していたのみならず、全身状態としても、左半身麻痺のため着脱衣・入浴・用便不能の状況にあり、歩行はもちろん自力で起き上がることもできず、本件搬送当日も、意識は不清明で、顔を始め皮膚は蒼白、呼吸も多く浅く、救急車への収容もストレッチャーにより行われたというほど悪化していたものである。このような本件被搬送者の状態からすれば、神恵苑から総泉病院までの搬送には約五時間という長時間を要し、本件被搬送者が八七歳と高齢であったことからしても、搬送途中で容態が急変する蓋然性は高く、自家用車やタクシーによる搬送が不可能であったことはもちろん、民間業者の患者搬送車両であっても、実際に容体の急変があった場合に、直接医療機関への迅速な収容が難しく、適切な応急措置が必ずしも期待できないこと等に照らし、救急車による以外、右場所へ「迅速に搬送するための適当な手段がない場合」でもあったと認められる。また、実際、市消防局長たる被告湯浅の決定に基づいて編成された市消防局の救急隊が、本件被搬送者を、総泉病院まで搬送している以上、本件搬送は、「救急隊によって、医療機関その他の場所に搬送」したものとも認められる。問題は、本件被搬送者が「緊急に搬送する必要がある者」であったか否かであるが、同人の罹患していた転移性脳腫瘍等の疾病は、老人保健施設にすぎない神恵苑では治療できなかったのであるから、本件救急車の出動決定当時、同人を、医療機関その他の場所へ「搬送する必要」はあったことが認められる。しかし、本件被搬送者は、脳圧の上昇による痙撃発作を起こす可能性があったとはいえ、右決定当時はもちろん本件搬送当日においても右発作は生じておらず、本件搬送が行われたのもその決定から三日後であったこと等からすれば、その搬送の必要性については、速やかに搬送する必要はあったとしても、「緊急に」搬送する必要までは必ずしもなかったものと推認され、本件搬送は、法二条九項及び施行令四二条により定められる救急業務の要件を充たすものではないといわざるをえない。

(三)  しかしながら、法二条九項及び施行令四二条は、法三五条の五にいう市町村が行わなければならない救急業務の内容を定めるものであって、本件搬送が右に述べたようにその要件に欠けるとしても、それは本件搬送が千葉市の義務となる救急業務ではないということを意味するも、その違法性を直ちに結論づけるものではない。

本来、地方公共団体は、その公共事務の処理を存立の目的とするものであるから、法令による制限がある場合を除いて、当該地方公共団体の裁量において多種多様の公共事務を処理することができる。この普通地方公共団体の事務の範囲は地自法二条二項に定められ、その具体的な事務の例示が同条三項に列挙されているところ、同項九号は、「病人、老衰者等を救助し、援護し若しくは看護し、又は更生させること」を挙げており、社会通念上相当と認められる範囲内の傷病者搬送であれば、右救助・援護等の一方法として普通地方公共団体の事務に当然含まれるものと解される。そうとすれば、市町村は、その義務として行うべき救急業務以外にも、社会通念上相当な範囲にとどまる限り、住民サービスとしての傷病者搬送を行うことが許されているものといえ、市消防局による本件搬送も、社会通念上相当な範囲にとどまる限り、住民サービス活動として千葉市の事務に当然含まれるものと解することができる。

前述のとおり、本件搬送は、搬送の「緊急性」までは必ずしも認められなかったという以外、法令上市町村に義務づけられている救急業務と大差はなく、千葉市住民の母親を同市内の病院まで市消防局の救急車が搬送したというものである。また、市消防局には実働用二四台、予備用四台、計二八台の救急車が備えられており、実働隊に支障を与えずに本件搬送をするだけの余裕があったところ、本件搬送の当日には、実際に予備用車両が使われ、千葉市内の救急業務にも支障は生じなかったものである。さらに、本件救急車の出動は同市内に向けてのものではなかったが、市消防局の救急車の市外出動も過去に相当数行われていたものである。しかも、一般に、急病人等のうちその症状が「生命に危険を及ぼし、若しくは著しく悪化するおそれがあると認められる疾病」を示すものではなく、結果としておよそ緊急に搬送する必要がなかったものでも、市消防局が通報等によりその者の存在を知った以上、その時点では専門家の判断を仰ぐ時間的余裕がなく、人道上救急車による搬送をせざるをえない場合がある。救急業務の運用上、そのような場合にも救急車を出動させているのであって、むしろ、このような、法令により市町村に義務づけられている救急業務が予定するほどの緊急性はないが、行政による住民サービスとしての搬送のための出動が相当数を占めているという実態があり、これは同時に、右のような行政サービスとしての搬送が受けられることを大多数の市民が当然視し、また望んでいることを示すものであるといえる。したがって、以上のことを併せ考慮すれば、本件搬送も社会通念上相当な範囲にとどまるものであって、地自法二条三項九号所定の公共事務に該当するものと認められる。

3  以上のとおりであるから、本件搬送を違法なものであるとする原告らの主張は、いずれも失当といわざるをえず、したがって、たとえ千葉市が本件搬送に要した費用をその公金から支出したとしても、何ら違法の問題は生じない。

三  よって、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの請求には理由がないのでこれをいずれも棄却し、訴訟費用の負担については民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 清水信雄 裁判官 大久保正道 髙宮園美)

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